ほどよい齢に。

時折り、早く年寄りになりたいなと思っている人がいる。先ほどから、あれは誰だったかなと思いだそうとしているのだが、思いだせない。一般世間にほどほどに知られている若い人だったんだが。仕方がない。


ところで、色川武大はその風貌からそこそこの年齢であると思われていたが、そうでもなかった。死んだ時はまだ60歳だったのだから。だが、50代の頃から老いることを感じるというか、老いへの憧れということを記している。<けれども、もう、秋、という感じは否めない。鏡をみると皮膚のたるみや衰えがいやになる>(色川武大著『いずれ我が身も』 中公文庫 2004年刊、初出は1992年)。57歳の時である。
そして、<老人というものは、大体、遊ばないものである。徹夜もしない。馬鹿呑みもしない。女の居るところでなど眼をさまさない。そうしてまた、仕事もしない。そうだ、老人は仕事もしなくていいのである。人間の体には仕事が一番わるい。なにが不摂生といって仕事ほど不摂生はない。そう思うと早く立派な老人になりたくて居ても立っても居られない>、とも記す。
まだ、飲む打つ買うの無頼に生き、色川武大と阿佐田哲也のふたつの筆名で作品を書き分けていた頃である。早く体に悪い仕事などしなくていい老人になりたいと言っている。が、現実は、そうなる前に幕を閉じてしまった。ほどよい齢になる前に。


山田風太郎は、<六五歳まで生きりゃあ、もういいのではないか>(『コレデオシマイ』1996年 角川春樹事務所刊)、と言っている。風太郎先生が「65歳まで・・・」と言っているのは、人間の生殖年齢と子供をある程度まで育てる年数を加えたものだそうだ。が、ご自身は79歳まで生きたが。
山田風太郎に関しては、高名な忍法帖シリーズはひとつも読んでいない。「くノ一」も何も。しかし今までにずいぶん触れてきた。毎年8月には、『昭和天皇独白録』や野坂昭如の書と共に山田風太郎の『戦中派不戦日記』は付きものであった。小説では、「明治波濤歌」の中の『巴里に雪のふるごとく』が、パリ物としてすこぶるつきで面白い。そして何と言っても『あと千回の晩飯』。これは何度も何度も読んだ。どうってことのないことを書いているのだが、読み始めると終わらなくなる。あと千回ぐらいだろう、と思って記し始めたのだが、現実には2500回ぐらい晩飯を食って死んだ。79歳で。ほどよい齢である。
『コレデオシマイ』は、死ぬ5年前の1996年に角川春樹事務所のふたりの編集者が、6回にわたって山田邸を訪れインタヴューしたものをまとめたものである。
この時、山田風太郎は74歳である。「今やりたいこと? 何もないなあ」、と語る。「たとえば旅行に行きたいとかいったことはありませんか」、と訊かれたのにこう返す。「旅行も、どこへ行ってもだいたい同じだという感じでね。今やりたいことといっても、別にないなあ」、と答える。「それでは、これだけは食べたいといったものは?」との問いに、「いやあ、それがないんですよ」、と。山田風太郎、毎日ウイスキーを飲みながらご馳走を食べているのであるが、こう応える。「僕はフグもうまいと思うけれども、」メザシだって上手いと思う」、」とも。
風太郎先生、2001年、79歳というほどよい齢で死んだ。


ところで何故、風太郎先生が79歳のほどよい齢で死んだことを記してきたかと言うと、来年、と言っても明日からであるが、私も79歳というほどよい齢となるからである。
ここ数年、何となくそういう徴候がある。
一昨年には何となく身体がおかしくなった。医者に行くと肺炎だと言うことで10日間入院した。昨年は2度何となくおかしくなり、その内一回はやはり肺炎だとして12日間入院した。今年は入院はしなかったのだが、3度何となくおかしくなった。その都度このブログもひと月ばかりずつ休んだ。
この秋以降は、腰椎の圧迫骨折と足の疲労骨折ということが加わった。骨折の方は良くなっている(足の方など、新しい骨ができてきている。「こんな年寄りでも新しい骨ができるんですか?」と医者に訊いたら、「できます。できます」、と医者は言っていた。へー、と思った)。が、それ以前からの脊柱管狭窄症の方がやっかいで、杖の助けを借りている。少し不具合ではあるが、出歩かなくてはと考えている。時折り来る孫たちが家の中を走りまわっているのを見るのは、それはそれで何とも言えない幸せな時であるが、それに溺れないようにと。今年の一年はさほど動いた覚えがない。近場の足利と佐倉で一晩泊まったのみ。
ほどよい齢となる明日からの一年は、杖を頼りにあちこちへ行こうと考える。「別にどこへも行きたくない」、と言う山田風太郎と異なり、残された一年、杖をつきながらではあるがあちこちへ行かねば、と思っている。インドはもう厳しいが、パリあたりならば、と。どうなるか。


一週間前、銀座奥野ビルへ行った。
丸山則夫展を見に行ったのだが、その後、早見堯に紹介されていたギャラリーナユタへ寄った。
ギャラリー内、誰も入ってくる人はいなかった。とても知的なオーナー・佐藤香織さんと暫らく話していた。辞する時、佐藤香織さんがこう言った。「よろしければ写真をお撮りしましょうか? 白い四角の背景の中に収まり面白いのですよ」、と。お言葉に甘えシャッターを押してもらった。
これである。
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ヒゲはすっかり白くなった。瞼が垂れさがってきて、目が落ちくぼんでいる。典型的なモンゴロイドの顔貌である。
黄色人種・モンゴロイドについて、司馬遼太郎はこう記す。
<この人種は、遠いむかし、シベリアの寒地でできあがって、寒地に適応するような形質をそなえた>、と。続けて、<たとえば白人種・コーカソイドのように瞼が薄くなく、ぼってりと厚い。寒さから眼球をまもるためである。また寒気が鼻腔の奥を凍らせることがないように鼻を顔にめりこませている。このため顔が平べったく鼻がひくい。要するに防寒型の顔である。・・・>(司馬遼太郎著『街道をゆく』38、『オホーツク街道』朝日文庫 2009年 朝日新聞出版刊)。
私は、禄に飯も食わないから、頬もげそっと削がれている。扁平な度合い、ますますその度合いを強める。後ろはアール・ブリュットの作家たちの作品である。
この姿で今年・2019年を送り、最後のほどよい齢の年、79歳となる2020年を迎える。


カルロス・ゴーンがレバノンへ逃走した。
ゴーン名義でないパスポートを使ったとも、楽器ケースに潜んでとも、と。いずれにしろ、日本の検察はゴーンに敗れた。ゴーン被告の保釈を取り消すなんて語っているが、保釈を取り消そうと何であろうと、カルロス・ゴーンは、もう手の届かない所へ行ってしまったのだから。
カルロス・ゴーン、「日本の不公正と政治的迫害から逃れた」、とベイルートで語っている。
日本の司法制度ばかりじゃなく、日本という国自体馬鹿にされること自明であろう。
日本国、シャクなことながら、どうも甘い国になっているようだ。