「神サンから借りたもの」、いつまで。

通っている病院の医者が「はっきりケリをつけましょう」、と言って、一週間前にPET-CTを受けた。
今日、その結果についての説明を受けた。PET-CTを受けた国立がん研究センター東病院からの報告書を基に、通っている病院の医者から。
しかし、はっきりとしたケリはつかなかった。
<左肺上葉にFDGの集積亢進を認め、・・・・・。肺癌が疑われますが、結核の既往症があるとのことで、炎症性集積との鑑別は難しいです。・・・・・。・・・・・>。
<Th3(No.3)、肋骨、胸骨、右腸骨、仙骨などに中程度のFDG集積を認め、・・・・・。・・・・・>。
などと癌研からの文書にあるが、より詳細な血液検査をしましょうとなった。通っている病院の医者は、左肺癌の疑いを血液検査、痰検査で確認、と話した。カビなども含む感染症を疑っている模様。昔、結核はやっているし、60年近く前に死んだ親父が肺にカビが生えたことがあるので、肺のカビのことも知ってはいるが。
それにしても、一度に7本、7種類の血液検査を受けるのは初めてである。一度に4、5種類のことはあったが。医者が「少し高いものもありますが」と言ったので、「保険は効かないのですか」と訊いたら、「ひとつ効かないものがあります」とのこと。保険が効こうが効くまいがどうでもいい状況ではあるが。
<多発骨転移の可能性>、と癌研がいう点については「非常に淡いため経過観察としましょう」となった。
「腹部の方は問題なかったのでしょうか」と訊いた。「問題ありません」との答え。「私は、胃も切ってるし腹の具合も慢性的によくないのですが、腹部の画像も見せてください」と言って腹の部分を見せてもらった。
と、真っ赤なところがある。「先生、ここ真っ赤じゃないですか」と言うと、「これは膀胱です。これは尿です」との答え。さらに真っ赤なところもある。「先生、ここも真っ赤じゃないですか」と訊けば、「これは腎臓です。やはり尿です」、と答える。PET-CTを撮る前に小便をしているのだが、その後、微量の放射性物質を血管に入れそれが全身に行きわたるまで1時間ばかり安静にしていたので、その間に溜まったのであろう。
しかし、後でこのようなことを考えた。
膀胱や腎臓に尿が溜まり、それが真っ赤に光っているのは理解できる。が、膀胱や腎臓に癌のような腫瘍があれば、やはり赤く光るのではないか、と。膀胱や腎臓の腫瘍と尿とは見分けがつくのか、と。医者は気軽に、「これは尿です」と言ったが。そうであろうな、と思うのみ。
いずれにしろ来月初め、今日の血液検査の結果を聴きに行く。
今日、医者は「癌ならば切ればいいんですがね」とも言っていた。実は私もそう思っている。しかし、こと肺となると単純にそうはいかない。肺は一度切っており、ただでさえ肺活量が少ない。これ以上少なくなると、おそらく不都合なことも増えてくるであろうから。悩ましい。
実は、PET-CTの結果があちこち真っ赤になっていて、ということも考えていた。あと半年とか、と。その場合はその場合で仕方ないな、と。
しかし、「神サンから借りたもの」、半年とかのものではない模様である。いつまでかは分からないが。


田辺聖子が6日に死んだことが報じられた。胆管炎で。91歳。
京都・嵯峨野に瀬戸内寂聴は住まいするが、お聖さんは、寂聴とはまた別種の存在感を持っていた。宮本輝は、「関西文壇は大きな存在を失った」というような意味合いの言葉を発していた。
確かにそうだ。軽ろみで知られ、それはそれで素晴らしいものであるが、大阪生まれらしい『道頓堀の雨に別れて以来なり 川柳作家・岸本水府とその時代』なども心に残る。
田辺聖子については、このブログでも何度か触れている。
実は、今日のタイトル「神サンから借りたもの」は、田辺聖子・お聖さんの言葉を拝借したものである。
昨年春、何か身体の具合がヘンだな、ということもあり、肺炎だと言われ暫らく入院したこともあり、『徒然草』からとった「住み果つる慣ひ考」の連載を行なった。さまざまな人たちの生死に関する考えを行き来していた。その中のひとつが、田辺聖子のこの言葉であった。
この「神サンから借りたもの」の前に、「人生は」という文言がつく。
「人生は神サンから借りたもの」、まさにその通り。それぞれの人の人生、神サン・神さまから借りているんだ。
私の人生も。いつまでなんて、分かりゃしないが。