『昭和天皇実録』の恣意と配慮(続き×3)。

『昭和天皇実録』の昭和21年3月19日、皇太后が木下侍従次長を通じ昭和天皇に退位を迫った同じ日、寺崎英成は、忠臣・寺崎英成という行動をとっている。
この日の『寺崎英成御用掛日記』に、このようなフレーズがある。
<・・・・・ 米内(光政)に行く ・・・・・>、との。
この「米内に行く」との言葉の裏に何が秘められていたのか、同書の「注」を記している半藤一利、未発表の極秘資料の内容を記している。「フェラーズ准将の米内大将に対する話」というものである。
昭和21年3月6日、フェラーズが米内に対しこう語っている、と。
自分は天皇崇拝者ではない。だから15年20年後に日本に天皇制があろうがあるまいが、また天皇個人がどうなっていても、関心は持たない。が、連合軍の占領政策にとっては、天皇が最善の協力者であり、天皇制を存続すべきであると思う、というようなことを語り、こう続ける。

<所が困った事には、連合側の或国に於ては、天皇でも戦犯者として処罰すべしとの主張非常に強く、殊に『ソ』は・・・・・。加うるに米に於いても、非亜米利加式思想が当局の相当上の方にも勢力を持つに至って、天皇を戦犯者として挙ぐるべきだとの主張が相当強い>、と。
それに対する対策としては、近々開始される裁判に於いて、東条に全責任を負担させることだとし、東条にはそのように言わせてもらいたい、とフェラーズは米内に言った、という極秘資料の内容を半藤一利は記す。
確かにそうなった。昭和天皇は、戦争犯罪人として訴追されることはなかった。東条英樹は昭和天皇を守った。
『昭和天皇実録』、とても面白い書である。飛ばし読みではあるが、時間を忘れる。大叙事詩と言ってもいい。
弱冠20歳で摂政となり、25歳で天皇即位。昭和11年の2.26事件の折り、「朕自ら近衛師団を率ゐこれが鎮圧に当らん」との言葉を発せられた時も、まだ34歳。盧溝橋事件から日中戦争へ入っていく頃でも36歳。お若い。
昭和16年12月8日の真珠湾攻撃の時のお歳は40歳。昭和20年(1945年)8月15日のポツダム宣言受諾、終戦の詔書の時は44歳であられた。
昭和史の研究者、識者の多くは戦前の日本を、軍部、特に陸軍が暴走した、それを抑えられなかったと言う。昭和天皇は立憲君主の立ち位置に立たれていた。それが、天皇のお考えはこうこうであったが、致し方なかった、という事態が次々と出てくることとなり、敗戦へと繋がっていった。
『昭和天皇実録』を読むと、昭和天皇はその時こういうことを話されていた、しかし、こうこうということになった、ということが多く出てくる。昭和天皇は正しいことをお述べになっているのに、と。
原武史によると、「実録」というものは、本来そういうものだそうである。
<・・・・・。「実録」の場合、一人の天皇の事績を顕彰し、後世に伝えることが目的とされていますので、この目的と必ずしも一致しない史料は採用されにくいという問題が出てきます>(原武史著『「昭和天皇実録」を読む』 岩波新書 2015年刊)。
続けて原武史は、こう記す。
<中でも最大の問題は、天皇には戦争責任がないというスタンスで一貫させようとしていることです。「実録」に依拠する限り、昭和天皇は退位について考えたことがなかったことになるのです>、と。
そうではあったのだが、晩年になっての昭和天皇の「心の奥」の懊悩、必ずしもそうではなかったのだなってことを思わせる。