「住み果つる慣らひ」考(9)。

今日の昼間、座いすにもたれて半分うつらうつらしながらテレビを見るともなく見ていたら、「最後の講義 映画作家 大林宣彦」という番組が流れた。3月にNHKBSで放送されたものの再放送らしい。
大林宣彦、早稲田の大隈講堂(映像から見ると、小講堂の方)で学生たちに「最後の講義」を行っている。
大林宣彦、2016年8月肺がんが判明、既にステージ4で余命3か月、と宣告されたそうだ。が、抗がん剤治療の効果があったようで、杖はついているが、学生たちとの質疑応答も含め3時間近くの講義を行っている。
大林宣彦、「フィロソフィー」、また、「メイク・フィロソフィー」という言葉をしきりに使う。哲学を持て、哲理を考えろ、と語る。その根底にあるのは「戦争体験」である、と語る。
1938年1月生まれの大林宣彦、現在80歳、敗戦時は7歳であった。戦争、敗戦後の体験が根底にある、と。平和孤児という言葉が出ていたように思う。ゆるキャラなんかになるな、とも。時代に流されるな、時代にだまされるな、ということらしい。時代に抗えってことだ。
ところで、肺がんで余命3か月を宣告されながら大林宣彦、『花筐』をクランクイン、完成させている。『花筐』が公開された時、見に行こうと思っていながら結局見逃してしまった。映画は見に行こうと思った時には、エイヤッって気合を入れて見に行かなければならない、ってことは分かっているのだが、しまったということが多い。
それはともあれ大林宣彦、「癌ごときで死ねるか。新藤兼人さんは100歳まで生きて映画を撮った。自分はあと30年ぐらい映画を作らなきゃ」、と語っているそうだ。
今日流れたNHKBSの中にはそのような言葉はなかったが、”Never give up”、「気合い」だってことなんだな。


やはりひと月ほど前のNHKBSに「写真家 荒木経惟 77歳の切実」というドキュメンタリーが流された。夜間、日を挟み90分という長い番組。
今、日本の写真家で世界に最も知られている写真家は荒木経惟ではないか。その天才アラーキーも77歳となり、「切実」ときた。「生死」、「死」を考えていく。
満島ひかりが四国・丸亀市の美術館に荒木経惟の「私、写真」展を見に行くところから始まる。

荒木経惟、この作品で世に躍り出た。

陽子さんと結婚する。
『センチメンタルな旅』、その新婚旅行。荒木経惟、私小説を思わせる「私写真」に思い入れがある。

「青ノ時代」とある。
新宿ゴールデン街だ。何十年経った今の姿と、あまり変わっていない。

画狂老人卍に何らかの思いがあるようだ。

写狂老人Aか。
このようなアラーキー得意の「文化写真」も数多出てくるが。

1990年1月27日、陽子さんが死ぬ。
棺の中の陽子さん。
荒木経惟にとっては「私写真」だ。しかし、このような写真が篠山紀信との間で激論となったんだ。

「私写真」。

「死現実」。

荒木経惟、前立腺がんの影響で右目を失明した。
で、「右眼墓地」。

女優もさまざまであるが、満島ひかりは美形の女優である。
4、5年前、瀬戸内寂聴の『夏の終り』が映画化され、満島ひかりが若き日の恋多き女・瀬戸内晴美に扮していたが、それはそれは美しかった。何より瀬戸内寂聴が、自分がこんな美人にしてもらってと大喜びしていたそうだ。
それはともかく、満島ひかりのこの視線の先は・・・

「死空」。

天才アラーキー、空や風景の写真の上に「死」という文字を書き加えている。

満島ひかり、こう語る。

荒木経惟・アラーキー、表面上は元気元気を装っているが、いつその時がきても、と思っているやにも思える。

満島ひかり、整った顔つきであるが、実は頭の中も整っている。
その思考回路、とてもユニーク。

アラーキーに限らず、77歳の「切実」なんだ。


石牟礼道子が死んだ日は憶えている。私が肺炎で入院した日であったから。
今日、東京で「石牟礼道子さんを送る会」が催されたそうだ。その送る会が始まる前、美智子皇后がお忍びで会場を訪ねられ、献花をし、遺族の人に言葉をかけられたそうだ。
水俣の問題はチッソの問題であり、次の皇后である雅子さまの云々、ということは言わず語らずといったことであり、美智子皇后が石牟礼道子と交流があったこともよく知られていたが、お忍びで献花に訪れられたとは。
その行く末、どれほどのものか分からないが、皇后・美智子さまの行動に驚いた。


夜、村田諒太の世界戦。
このまま進んで判定勝負か、と思っていた。と、8回終了間際、ストレートであるかフックであるかいずれにしろ右パンチ一閃、相手はマットに沈んだ。
村田諒太が勝ってよかったが、何か拍子抜けするような試合であった。