北斎 −富士を超えてー展。

2年以上前からあべのハルカス美術館が大英博物館とのコラボ、共同プロジェクトを進めている、ということは流れていた。とっておきの目玉として、小布施の祭り屋台の天井画も持っていくとも。
それは剛毅な、と思っていた。
大英博物館での北斎展、昨年5月25日から8月13日にかけ催されたそうだ。北斎・HOKUSAIの名は、”Japan’s greatest artist”として知られる。大盛況であったようだ。
その後、10月から11月にかけあべのハルカス美術館での日本展が催された。「北斎 −富士を超えてー」。
なお、大英博物館でのタイトルは、”HOKUSAI Beyond Great Wave(北斎 大波を超えて)であるのに対し、あべのハルカスでのそれは「大波を超えて」を「富士を超えて」、としている。
いずれにしろその根底にあるのは、北斎といえばまずこれ「神奈川沖浪裏」の図。

阿倍野近鉄、あべのハルカスとなった。

ハルカス16階、美術館へ。

週末の夜、2、30分待ち程度であった。

どうしてあべのハルカスが世界のビッグネーム・大英博物館との共同プロジェクトを、と不思議に思っていた。
あべのハルカスの館長と大英博物館アジア局日本部門長とが、以前から懇意であったからだそうだ。で、世界の北斎を共同でやろう、となったようだ。

北斎に関する展覧会は数多い。その中での大英博物館とのコラボ、特色は出している。
北斎晩年の30年に焦点を当てている。肉筆画を世界中あちこちの美術館から持ってきている。
北斎作品の中で私が最も好きな肉筆画≪富士越龍図≫も、小布施の北斎館からきていた。

90となり、天があと5年の命をくれたなら・・・と語る画狂老人卍の思いを見る。

≪鍾馗図≫。
弘化3年(1846)、絹本着色一幅。メトロポリタン美術館。
八十七歳 卍筆。

娘・応為の作品も。
よく知られた作品≪吉原格子先之図≫。
天保後期ー嘉永7年(1840−54)頃、紙本着色一幅。太田記念美術館。

信州小布施上町祭屋台の天井絵・怒濤図の内≪男浪図≫。
弘化2年(1845)、板絵着色一枚。小布施町上町自治会。
小布施の北斎館に展示してある屋台の天井絵を取りはずし、ロンドンと大阪へ持っていった。
版画の≪神奈川沖浪裏≫は素晴らしい作品であるが、小布施の祭屋台の天井絵の「怒濤図」も素晴らしい。版画と異なり大きなものなので、その迫力弥増す。
音声ガイドも借りたが、どのようなものであったか忘れてしまった。現場で見知ったものは、その印象が強く残っている。

≪李白観瀑図≫。
嘉永2年(1849)、絹本着色一幅。ボストン美術館。
齢九十歳 画狂老人卍筆とあり、「百」という大きな落款。
北斎、死の年の作である。
100歳まであと10年、北斎にはその程度の猶予を与えてやってもいいのではないか、と思う。画狂老人卍、やる気満々だったのだから。

館内へ入るまでの待ち時間、このような映像が流れていた。
これは≪凱風快晴≫・赤富士であるが、メーンはやはり・・・

≪神奈川沖浪裏≫だ。
で、NHK、ハイスピードカメラで波を撮ったそうだ。

どの程度のスピードだったのかは、覚えていない。

1秒間に何百、何千というスピードであろう。

ミクロな世界。美しい。

だんだん胃の内視鏡検査の、食道か胃の映像のように思えてくる。
が、NHKの言わんとしている所は、北斎が描いた「浪裏」の波頭も、ハイスピードカメラで撮ったこの映像と同じ意味合いを持っている、ということのようだった。
そうかもしれないな、とただ思う。

会場の外にあべのハルカスの模型があり、窓のガラスに映っている。どういうことか、ふたつも。
いつだったか忘れたが、池上彰が大阪のおばちゃんたちと話をしていてこう言った。
「そういうのをあべのハルカスというんですよ」、と。「日本でただひとつなのに」、と。大阪ではよく知られているが、東京ではさほど知られていない、という現象を池上彰は「あべのハルカス」と譬えたようだ。
たしかにそうだ。あべのハルカス、日本唯一のスーパートールであるが、大阪以外ではさほど知る人も少ない。
あべのハルカス美術館がビッグネーム・大英博物館とコラボをしても、東の方まではさほど伝わってこなかった。池上彰が言う「あべのハルカス」現象である。