顔のないヒトラーたち。

第二次世界大戦で敗れたドイツと日本の戦争犯罪は、ニュルンベルク裁判と極東国際軍事裁判(東京裁判)で裁かれた。勝者の裁判という側面は持つが、裁かれてしかるべき多くの理由がある。その後の両国、共に経済復興に乗りだしていく。戦争の記憶が薄れていく。

敗戦から十数年経った1958年のフランクフルト、アウシュヴィッツのことは知られていなかった、という文言があった。驚いた。
ドイツで、アウシュヴィッツのことが知られていないなんて。驚いたが、どうもそうなんだ。
罪は消そう消そうとする。消せない記憶があるにもかかわらず。

『顔のないヒトラーたち』、監督はドイツ在住のイタリア人、ジュリオ・リッチャレッリ。初めてメガホンをとった作品だそうだ。
「ドイツの歴史認識を変えたアウシュヴィッツ裁判までの苦闘を描く実話」、と惹句にある。
ニュルンベルク裁判のことは知っている。アウシュヴィッツ強制収容所のことも知っている。だが、アウシュヴィッツ裁判と言われると、ウーン、どういう裁判だったかな、というのが正直なところである。アウシュヴィッツ強制収容所でのナチス・ドイツの悪行を裁いたのであろう、と推し測る程度。

1958年、フランクフルトの駆け出しの若い検事・ヨハン、元SS(親衛隊)の男をつきとめたジャーナリストや強制収容所を生き延びたユダヤ人と共に、ナチスがアウシュヴィッツでどのような罪を犯していたのかを明らかにしていく。さまざまな圧力を受けながら。

アウシュヴィッツ強制収容所での元SS隊員を調べるヨハン、さまざまなことにぶち当たる。苦悩に打ち負かされることもある。一時は検事をやめる。死んだ自分の父親も元ナチだったことを母親から知らされる。落ち込む。恋人の父親も元ナチだった。アウシュヴィッツ強制収容所でのホロコーストを突きつめるヨハン、苦悩に沈む。
そしてついに、フランクフルト・アウシュヴィッツ裁判は、1963年12月20日、初公判の日を迎える。

フランクフルト・アウシュヴィッツ裁判が終わったのは、1965年8月10日。終戦から20年が経った日。
若い検事・ヨハン、アウシュヴィッツの罪を裁いた。
ドイツ人がドイツ自身を裁いた。

2015年1月、ナチスによる犠牲者の追悼式典で、ドイツ首相・メルケルはこう語っている。
「・・・・・。私たちドイツ人は過去を忘れてはならない。・・・・・、過去を記憶していく責任があります」、と。
過去の記憶を消そう消そうとしている日本。彼我の差を、どうしても感じる。


案の定、ドナルド・トランプ、パリ協定から離脱した。
ホワイトハウス前では、多くの人が”SHAME”と書かれたプラカードを持って声をあげている。翻ってラストベルトでは、Tシャツにジーンズ、キャップのブルーカラーの男たちが「トランプはオレたちを守ってくれた」、と言って喜んでいる。
こんなことをやっているとアメリカは凋落する。
独仏伊の三首脳は共同でトランプの離脱を非難した。当然だ。見逃せないのは中国だ。EUと歩調を合わせている。
アメリカの凋落、中国の勃興。
イヤな構図であるが、そのような構図への序章となるやもしれない。
トランプ、パリ協定からの離脱表明の後、ドイツ、フランス、イギリス、カナダの首脳へ電話をしたそうだ。が、日本の安倍には電話がない。安倍晋三、好きな男ではないが、日本の安倍にもひと言ないのは腹が立つ。
官房長官の菅義偉は、「米国と協力していく方法を・・・」なんてヌルいことを言っている。TPPを忘れたか。ひとつも学習していない。それと同じだ。それはそれとし、安倍晋三の反応が聞こえてこない。どういうことか。
常には問題発言の多い麻生太郎のこの言葉が、こぎみいい。
「アメリカはその程度の国なんだ」、との。