さいたまトリエンナーレ(8) 多和田葉子。

10年ほど前、仕事を辞めた時、それまで気になっていた人の作品を読もうかな、と思った。例えばこういうような人。金井美恵子、よしもとばなな、山田詠美、多和田葉子といった、いずれも個人的なおつき合いは御免こうむりたいが、外から見ると気にかかる、といった人たち。
よしもとばななはブックオフの100円均一にいくらでもあった。他の人はブックオフにはあまりない。が、図書館にはある。多和田葉子も図書館で借りた。何だったかは、忘れてしまった。あまり面白くなかった。どうも合わない。だから、途中で放り出した。
先月下旬、さいトリの岩槻旧民俗文化センターに、多和田葉子の作品が展示されているのに驚いた。しかも、3部屋に亘って。
記憶、痕跡、触覚、ということを表現している。なかなか面白いじゃないか。
それ以降、『光とゼラチンのライブチッヒ』、『雪の練習生』、『エクソフォニー』、多和田葉子の3作品を読んだ。
『光とゼラチンの・・・』は短編、まだベルリンの壁が存在するころの不思議なお話。西の世界から東の世界へ、東から西へ。ウーン、やはり、あまり面白くない。
『雪の練習生』は、さいトリでの多和田葉子のインスタレーションのひとつが≪白熊の部屋≫であるから。「祖母の退化論」、「死の接吻」、「北極を想う日」の3部からなる『雪の練習生』、ホッキョクグマ3代の物語。
これも不思議なお話だ。サーカスのスターから作家になった初代の「わたし」、その娘、つまり2代目の「トスカ」、そして3代目の「クヌート」、この3代の主人公、ホッキョクグマ・白熊なんだ。これは面白かった。
『エクソフォニー』、<母語の外へ出る旅>という副題がついているが、これは凄い本だ。面白い。
解説のリービ英雄が、<エクソフォニーとは、母語の外に出た状態一般をさす言葉である>、と記し、<・・・、刊行されたときに、「そくざに、現代の古典」という評価を得たのであった>、とも記している。
読み難くはない。しかし、解り易いとは言えない。当然のことではあるが、ついていけないこともある。多和田葉子が記している言葉の意味は理解できる。しかし、多和田葉子が記す言葉が内包する本質は理解していない、おそらく。
多和田葉子、1982年以来34年間ドイツに住んでいる。日本人ではあるが、ドイツ語でも多くの作品を発表しているのでドイツの作家でもある。
『エクソフォニー』を読んで初めて知ったが、詩人でもある多和田葉子、ドイツや日本国内ばかりでなく、世界中あちこちの国で朗読会を行っている。また、あちこちでのシンポジゥムへの参加もハンパじゃない。『エクソフォニー』、その第一部は、ダカールから始まりパリ、ケープタウン、ソウル、ワイマール、北京、ボストン、モスクワ、・・・、・・・、と主に朗読会のためにあちこちを飛び回る中で、言葉、言語、国境、声、音楽、移民、・・・、・・・、を考えていく。
刺激的。理解するしないは別にして、面白い。
味覚はどうかは不明だが、視覚、聴覚、嗅覚、触覚の領域を超えていく。
長くなった。さいたまトリエンナーレでの多和田葉子の作品写真を載せておく。



多和田葉子≪白熊の部屋≫、多和田の著『雪の練習生』を用いたもの。





こう記されているが、『雪の練習生』もその痕跡本もなかった。
誰かが持っていったのかなー。

で、『雪の練習生』、図書館から借りてきて読んだ。



≪さわれる文字の部屋≫。

この部屋、薄暗い。
空間、空気、触覚、といったものを表わしているのであるから、明るくなくともいいんだ。
左手に紙の束が下がっている。

わら半紙が綴じてある。
見る人は、その1枚を引きちぎる。

わら半紙に小さな文字、ひらがなが書かれている。
多和田葉子が3.11の後発表した『献灯使』の一部。この部屋ではこれの点字が部屋を走っている。
なお、多和田葉子の原発に対する反応、ハンパなものじゃない。多和田のウェブサイトを見ると、経歴や作品、現況などと共に、「原発」という柱が立っている。原発に別れを告げたドイツに住む、ということが根底にあろう。

点字がずーと続く。

部屋の中、ずーっと。

文字って読むばかりじゃなく、触ることもできるんだ。



≪L字の部屋≫。
L字の薄暗い部屋の中に、さいたまトリエンナーレのこの部屋のために多和田葉子が書き下ろした11篇の詩が貼りつけられている。
手漉きの細川紙に記されて。

文字通り、こういうL字型の部屋である。
「咲いた間 / 2016」とは、11篇の詩のタイトルであろう。その下の換気扇とかヒビとか窓とか切断されたコードとかといったものは、各篇のタイトルなんだろうな。
それにしても、「咲いた間」、「さいたま」って遊び、多和田だってやるんだな。

部屋に入って右側。

左側。

窓側。

足がもげた古いステレオ装置から、多和田葉子の朗読の声が流れる。

「窓」。

「ヒビ」。

「切断されたコード」。
読めないな。

大きくする。

「スピーカー」。

「床」。

「空調」。

「コントローラー」。
読みづらい。

大きくする。

「黴」。

「電源」。
後で気がついた。11篇の詩、9篇しかない。2つはもらしてしまった。仕方がない。
それにしてもである。多和田葉子、その活動、世界を舞台としているが、力技のできる人物である。
その詩のタイトルに、「ヒビ」だとか「床」だとか「スピーカー」なんて言葉を堂々と使っているのだから。

さいたまトリエンナーレ、旧民俗文化センターのあちこちには、このようなものが貼りだされていた。
新聞でも報じられたが、暫らく前多和田葉子はこのような賞を受賞した。ブレヒトなども受賞している凄い賞なんだ。ドイツ語で書く作家として認められたことを多和田自身喜んでいた。




旧民俗文化センターには閉まるまでいた。暗くなっていた。
来る時にはマイクロバスであった無料のバス、最終便ということか大きなバスが来ていた。が、発車時間になっても誰も乗ってこない。私ひとりを乗せてバスは走った。申しわけない。降りる時、大きな声で「ありがとうございました」と言った。
さいたまトリエンナーレ、2度目はこれにて終わる。
最寄駅の近辺で少し飲み、少し食いして帰る。