氷の花火・山口小夜子。

山口小夜子が57歳で急死してから8年となる。しばらく前、その模様を3回に亘り記述したが、夏前にはMOT(東京都現代美術館)で大規模な企画展が催された。今度は、待たれていたドキュメンタリーである。

山口小夜子が残した膨大な数の服やアクセサリー、書物などが開封される。彼女に近づこうと。
1970年代以降ティエリー・ミュグレー、サンローラン、ジャン・ポール・ゴルティエ、ディオール、ヴァレンティノ、シャネル、クロード・モンタナ、・・・・・、数々のブランドのミューズとなったトップモデル・山口小夜子。

監督の松本貴子は、生前の山口小夜子と親交があったそうだ。
山口小夜子と関わりがあったさまざまな人が出てくる。彼女への思いなどを語る。
高田賢三、ジャン・ポール・ゴルティエ、天児牛大、資生堂のクリエイティブディレクターであった中尾良宣、死の2年前のあの印象に残る黒が強調されたポートレートを撮った下村一喜、後年、あの『影向』を創った生西康典と掛川康典、その他多くの人が。
中で、印象に残るのはこの二人。
そのひとりは、資生堂のヘア&メーキャップアーティスト(今は、資生堂のその方面の学校の校長をしているようだが)である富川栄。
山口小夜子、1973年から1986年まで資生堂の専属モデルであった。富川栄、その間ずっと山口小夜子のメーキャップをしていた、という。富川栄、こう話す。「切れ長の目、と言われるが実際の目は丸かった」、と。それよりこう言う。「小夜子さんは、生きているうちに、たぶん自分の展覧会をしたかったんだろうと思う」、と。
この富川さんの指摘は凄い。おそらく、そうであろう、と思われる。
山口小夜子、モデルの世界からだんだんダンスやパフォーマンスの世界に足を踏み入れるのだから。

”東洋の神秘”・山口小夜子が作られていく。
この作品、さまざまな人がさまざまなことを語る。
高田賢三は、「やっぱりすごいオーラがありました。かぐや姫が降りてきたような」、と語る。ジャン・ポール・ゴルティエは、「彼女が出てくれた時にはとても嬉しかった。とても光栄に感じた」、と。
高田賢三にしろゴルティエにしろ、そうですか、そうでありましょう、で通りすぎる。
が、山本寛斎の存在感にはかなわない。
山本寛斎、昨日の「デヴィッド・ボウイ・イズ」展でもその存在感が際立っていた。
この『氷の花火山口小夜子』での山本寛斎、他の誰をも圧倒する。
もともと山口小夜子を世界へ送り出したのは、山本寛斎であるそうだ。
1971年、寛斎のロンドンでのショーに山口小夜子を連れていく。「それ以来20数年の付き合いであった」、と山本寛斎は語る。ある時、90年代のことであるが、山本寛斎と山口小夜子、気まずい間柄になったそうだ。
山本寛斎が語るには、「どうも、もうあなたもモデルとしての旬は過ぎたのだから」、というニュアンスの言葉を言ったからだろうかな、と。
本作には、山本寛斎が何度も出てくる。寛斎のセンス、私にはイマイチ解らないのであるが、寛斎のパフォーマンスセンスには、何といえばいいんだろう、と言う他ない。

モロッコでセルジュ・ルタンスと。
横須賀功光にしろセルジュ・ルタンスにしろ、山口小夜子、トップクリエイターのミューズとなってイマジネーションを与えた。

上は、モロッコのセルジュ・ルタンス邸での山口小夜子ではないかな。下は、、エッフェル塔が見える、セーヌが流れる、という光景。

山口小夜子、”彼女は、終わりのないランウェイを歩いた”。



フランスのオランドは駆け巡っている。
昨日はイギリスのキャメロン、今日はワシントンへ飛んでオバマと、明日はモスクワへ飛んでプーチンと。IS対応、IS包囲網を構築しようと。
そこに、昨日、トルコ軍がロシア軍機を撃墜した、との情報が流れた。トルコ、ロシア、双方の言い分は異なっている。
ISをやっつけるのが先決なのだが。さて、どうなるか。