青もみじ巡り(11) 西塔(続き)。
叡山の三塔、東塔は「とうどう」、横川は「よかわ」。共に難しい読みであるが、西塔だけは分かりやすく「さいとう」と読む。
西塔エリアに入り少し歩くと、にない堂が見えてくる。
杉木立の中、さほど歩かないうちに。
右に法華堂。
左に常行堂。
常行堂にはこのような看板があり、扉も閉められていたので、お堂には入らなかった。
まったく同形の法華堂と常行堂、渡り廊下で繋がっている。「担い(にない)堂と称されてきた所以である。
西塔の武蔵坊に身を寄せていた弁慶が、これを担いで来たということらしい。この渡り廊下に肩を入れて担いだそうだ。
にない堂を後ろから見る。
この中央部に肩を入れて担ぐ。あの弁慶ならば、可能であろう。
にない堂から下る石段、その先には釈迦堂が見えてくる。
石段を釈迦堂へ降り切る少し前、左手にこのような光景が現われる。
左の石塔は、これ。円戒国師寿塔。
正面の小さなお堂は、恵亮堂。
石段を下りる。
釈迦堂と向き合う。
重文の釈迦堂、大きな伽藍である。
現在の釈迦堂、元亀2年(1571年)、信長の叡山焼討ちの後、秀吉の命によって文禄4年(1595年)に三井寺園城寺の弥勒堂を移築したもの。
転法輪堂とも西塔中塔とも呼ばれる。
現在の叡山山上の堂宇では、最も古い。
ここで、『世の人びとに光を可かげ多 高僧乃絵傳』、という小冊子を求めた。
1ページにひとり、高僧が描かれている。
仏陀・釈迦牟尼如来から始まり、釈迦十大弟子のインド人の高僧、中国天台宗の高僧が5人。そして、伝教大師最澄、聖徳太子、叡山仏教の恩人・桓武天皇、そして慈覚大師円仁以下の天台の高僧。さらに、法然以下の鎌倉期の各宗開祖の人たち。空也上人や一遍上人なども含めて。
釈迦堂のすぐ近く。
杉の巨木のまにまに、このような路傍の仏さまも。
その先には、細い道が延びている。
右手には、見づらいが、「叡山學寮」という看板がある。居士林研修道場への道のようだ。
私は、もちろん、そのようなところへは行かない。
戻ることにする。
にない堂への階段を上がり始めると、すぐにお坊さんの一団に行き会った。
20数人の一団であった。
皆さん、濃紺の作務衣のようなものを着ていた。中にはトートバッグのようなものを背負っている人もいる。皆さん、まなじりを決する、というほどの思いではない模様である。
でも、皆さん、頭を丸めている。剃りあげたばかり、という人もいる。それぞれの首には、輪袈裟も掛けられている。