冥の照覧。

今年の関東、大雪が二度降った。2月8日と14日。
2月11日、国立新美術館へ行った。

地下鉄乃木坂から新美術館への通路には、8日の雪、3日経った後もまだ残っていた。

第58回新槐樹社展へ。
新槐樹社会員・光田節子の作品を観るために。

光田節子の今年の出品作。
左は、≪私の山 −今ー≫、右は、≪私の山 −これからー≫。共に80号。顔料は、透明水彩。
ウーン。困った。去年の≪私の山 −あおー≫、≪私の山 −あかー≫、とどう違う。
光田節子、昨秋、京都・神宮道のギャラリーで個展を開いた。観に行った。
私が知る光田節子の作品は、4年前のものから。4年間、同じように見える作品である。しかし、昨年秋の個展での作品は、それまでのものとは異なっていた。
カラフルであった。色が炸裂していた。今までの深い沼の底から、何か新鮮で明るいものがわき出してきたように思えた。
しかし、今年の新槐樹社展への出展作は、そうではなかった。
昨年秋の個展を観て、「何処へかは知らず、飛びたったんだ」、と思ったが、そうではなかった。光田、原点をより深めていたんだ。

光田の原点、マーク・ロスコであり、その色である。
その内なる心、外から想うことなど叶うまい。

<近代以降、もっとも意を用いなくなったのは「冥の照覧」であろう。冥とは、暗いとか目にみえない意味で、人間を超えたもののこと。その視線がわが心にそそがれている・・・・・それが、冥の照覧だ。・・・・・。わが心の内を照射するものに、改めて意を用いたい>。
興福寺貫主・多川俊映著『心に響く99の言葉 東洋の風韻』(2008年 ダイヤモンド社刊)の初っ端にある言葉である。
毎年毎年、己を貫く光田節子の作品に通徹する言葉であるように思えるのだが、違うかな。


オランダ・ハーグのアメリカ大使公邸で安倍晋三とパク・クネの会談が持たれた。
バラク・オバマを間に挟んで。
バラク・オバマ、本当はこう言いたかったんじゃなかろうか。
「安倍さんもパクさんも、ボクよりも年上でしょ。少しは大人になってください」、と。