龍安寺。

このところ、これと言った蓮の花は見ていない。去年は見た記憶がない。
これと言ったものでは、一昨年の暮、チェンマイのフラワー・パークに蓮池があり、紫色の睡蓮が咲いていた。蓮池ではないが、丁度2年前の7月初め、奈良の唐招提寺で多くの蓮を見た。腹に唐招提寺と書かれた大きな鉢に植えられた蓮、多くの花をつけていた。その数、数十鉢あった。
それくらいで、今年も、蓮も睡蓮も見ていなかった。蓮ではないが、龍安寺の池の睡蓮が咲いている、ということを知った。見に行こう。
蓮にしろ睡蓮にしろ、朝早い時間に行くことが肝要、ということは承知であるが、私にとってはなかなか難しい。でも、何とか10時過ぎには京都駅前から市バスに乗って、龍安寺へ行った。
龍安寺も久しぶり。しかし、睡蓮を見に行くのは初めてである。

龍安寺前でバスを降り、門前へ行くと、こういう立て札がある。
そうだろう。まずは、石庭、本堂だ。池は、その次、境内の風致景観のひとつ。

見づらいが、この図の中央下、山門をくぐると、すぐ池がある。
鏡容池。古くから明治末期あたりまでは、おしどりが多くいたので”おしどり池”とも呼ばれていたそうだ。それよりも、平安時代には、お公卿さまがこの池に龍頭の船を浮かべ、歌舞音曲を楽しんでいた、という。

木々の間から池面が見えてくる。現在の鏡容池。

向うにいるのは、オシドリではなくサギのようだ。

鏡容池、回遊式の庭園である。
四季折々、花を愛で、月を愛で、優雅な時を持つ舞台。

睡蓮、ここでは、赤い花と白い花が混じっている。

手前の茎が立っているのは、睡蓮ではなく蓮であろう。

池には、島が二つある。辡天島と伏虎島。正面に見えるのは、伏虎島のようだ。

カメラのレンズを近づける。このような睡蓮。

龍安寺とは、どのような寺であるか、という立て札。
何とか読めるのではないか。読んでください。
日本語の下に、英語、中国語、韓国語の説明がついている。十分なものではないが、この3言語がついているのは妥当である。英中韓の言葉、京都のあちこちで耳にするのだから。

石庭を見るため入った玄関のすぐ左に、この書がある。
「雲關」の文字。

「雲關」、玄関或いは関所という意だそうである。大雲山 龍安寺の謂れも。

正面には、この屏風。

陶淵明の漢詩、「飲酒」。
このような意だそうだ。
石庭を見なかったワケでは、当然ない。そんなこと、あるワケがない。それは明日。