特定機能病院。

他人さまより優っているものなど何もないが、医者との付き合いの長さでは、まあ、負けない方だろう。
年単位の入院も二度しているし、2〜3週間の入院なら何度か。切った貼ったの痕は、大小合わせ都合10か所。自慢にはならないが。今、馴染みの医者は、5つある。
実は、半月ほど前から、そのひとつ、慶應病院に腹を立てていた。
馴染み(医者は、馴染みとは言わないか。かかりつけだ)の病院の中では、最も大きな病院だ。付き合いは永い。30年以上になる。さまざまな科に。
1か月ほど前の予約日に行かなかった。私が、悪い。グループ展への出品作は出来あがっていないし、面倒でもあったから。
半月ほど前に行った。通常ならば、予約外で診療してくれる。予約外は、後回しとなり、大分遅れるが。しかし、受付の人、頑としてはねつけた。この夏、予約制度が変わったのだ、という。
新しい制度で決められた時間内に、もう一度来い、と言う。そこで、改めて予約を取れ、と言う。薬だけでも同じだ、と言う。医者に会うまで、あと2回行かなくてはならない。私は、腹を立てた。
「通院中の患者さんへ」、というパンフレットが置いてあったので、それを貰って帰った。何故、新しい制度にしたのか、縷々書いてある。今まで通院していた患者ばかりでなく、初診の患者も、紹介状を持ってきた者のみ受け付ける、となっている。
まずは、近所の医者や病院で診察を受けてくれ、と。それで、大学病院での診療が必要と判断された場合のみ、紹介状を書いてもらい、慶應病院へ来てくれ、と。それが、「特定機能病院」の役割りであり、使命だ、とも。
昨日、慶應病院へ行った。新しい予約を取るために。
各科の前にインフォメーションコーナーがあり、以前はいなかった若い女性がいる。ピンクのコスチュームに青いネッカチーフを巻いた、航空会社の受付にいるような若い女性が。彼女に話した。予約は予約として、今日は、薬だけでも出してもらえるとありがたいのだが、と。先生に伝える、と言う。
それが功を奏したのか、何と医者と会うことができた。
胃の内視鏡やエコーなどの検査日(最も早く取れる日で、来年の3月。これは、慶應では、今まででも同じ。来る人が多いんだ)を決めた後、今の担当医、こう言った。
「ご相談なんですが、あなたは手術をしてから大分経っている。もう治ってます。この検査結果までは診ますが、その後はご近所の病院で診てもらう、ということはどうでしょうか。その際は、紹介状を書きます」、と。
大学病院の外来医、何年かに一度変わる。今の担当医は、30代の女医。私は、この人にあまりいい印象は持っていなかった。機械的にこなしているな、と思っていた。しかし、昨日は、この先生のこと、そうは思わなかった。慶應病院には、全国あちこちからいろんな患者が来て、医者も大変なんだ。
会計の時の私の整理番号は、3000番台だった。予約外だったから遅い時間の番号ではあるが、慶應には、一日に3000人以上の人が来ている。制度改革、当たり前だ。
私は、理解した。
慶應には、先端医療を行なう「特定機能病院」としての役割りを担ってもらうのがいい、と。来年3月の検査で異常がなかったら、私は、近所の病院へ変わろう、と。
今までに受けた10回の手術の中、5回は慶應で受けている。ずいぶん前であるが、入院中、夜9時過ぎ、病棟の廊下で裕次郎に行き会ったことがある。車椅子に乗った裕次郎を、4〜5人の男が取り囲んでいた。
車椅子を押していたのは、渡哲也だったかもしれない。周りにいたのは、館ひろし以下の石原プロの面々だったであろう。それは、憶えてはいない。憶えているのは、ばさばさの髪で、身体の大きな車椅子に乗った裕次郎だけ。慶應病院の想い出だ。
20年ほど前、初期の癌細胞を見つけてくれたのも、慶應病院。それは治った。2/3くらい取る、と言っていたが、3/4ぐらい取られてしまい、骨と皮になってしまった。しかし、それであるからこそ、今も生きている。今後、また癌になることもあろうが、その時には、また、慶應に来ればいい。
「特定機能病院」、使命は、重く、大きい。