草間彌生(続き×5)。

それにしても、瀧口修造という人は、凄い人であった。
今、思い出す。50年近く前の新宿、紀伊国屋前の路上。若い連中が多く集まっていた。私もいた。しかし、何があったのか、想い出せない。おそらく、紀伊国屋ホールで何らかの催しがあったのであろう。
ひときわ目立つ老人がいた。よれよれの長いコートを身につけていた。やや長い髪には白さも見える。瀧口修造であること、すぐに解かった。10代、20代、ま、30代も入れて、それ以外の年代の人がいなかったわけではない、と思う。しかし、60代と思しき人は、瀧口修造以外いなかったに違いない。
瀧口修造、若い世代の守り神であった。多くの才能のあるアーティストを、世に送り出した。草間彌生もそうである。
昨日も触れた草間彌生の処女小説『マンハッタン自殺未遂常習犯』の巻末、瀧口修造の文章が入っている。タイトルは、「妖精よ永遠に」。
<妖精? それがもし存在するなら、好んで妖精であるのではない。おそらく、地上に生れて、必死にこの世の生存権をもとめているにちがいない。それでもなぜ妖精なのか。・・・・・>、と瀧口は書く。
角川文庫の同書の解説は、中上健次の手になる。中上健次、初めて草間彌生に会った時のことを、こう書いている。
<その女性は、・・・・・、硝子が震えるような声で、言葉が次ぎつぎと湧いて出る、イメージが次々とわいてくる、と訴えかけるように言う。・・・・・不意にビートルズのささやくような歌声を思いだした。あるがままに・・・・・あるがままに・・・・・その女性が草間彌生さんだったのである。・・・・・>、と記し、
<60年代後半に20歳前後だった者に、その名は妖精のもののように響いた。・・・・・>、と続ける。
中上が、初めて草間と会ったのは、前後の脈絡から推して、80年代半ばだと思われる。その中上も、60年代後半の草間を、”妖精のもののよう”と形容している。”妖精”、そのニュアンスは異なるが、瀧口修造と同じ言葉を使っている。
水玉の服を着て、赤や、青や、緑の鬘をつけた、今のヘンなバアさんの草間の姿しか知らぬ人には、不思議に思われるであろう。若いころの草間彌生、可愛い女性であった。このこと、本当のこと。
2004年から2005年にかけて全国を巡回した草間彌生展の図録には、草間の作品ばかりじゃなく、草間の写真も多く載っている。
草間ファンとしては、若いころの草間の写真、ぜひ載せたい。で、その図録から複写して、載せちゃう。

その図録の表紙。2004年の草間。お馴染みの顔。

10歳のころの草間彌生。意思の強そうな表情だ。

1952年の草間。
時に、23歳、娘らしい顔つき。着ている服は、草間自身のデザインである。

1955年、26歳の草間。
この服も、草間のデザイン。

1957年、渡米の前、松本の自室での草間。
この服も、草間作。祖母の帯を使って仕立てたそうだ。

渡米の翌年、1958年、ニューヨークのアトリエ(アメリカ風に言えば、スタジオ)での草間。
バンバン描いている。

1961年、アトリエでの草間。草間彌生、32歳。
ネットペインチング、無限の網だ。それにしても、ずいぶん大きなものを描いている。

1963年、ガートルード・スタイン画廊での個展「集合 千艘のボート・ショー」での草間。

1966年、「自己消滅(網強迫シリーズ)」。
この前後の草間、数多くのハプニングを行なっている。裸の女王、セックスのミューズと喧伝された。

1967年のハプニング「自己消滅」。
ボディーペインティングも、多く行なった。

草間彌生、服のデザインも手がける。ペインティングドレスによるファッションショーも行なっている。
1969年には、6番街にファッション・ブティックも開いている。ブルーミングデールにも。これは、その年、クサマドレスを身にまとう草間。このドレス、下の方には、大きな穴が幾つもあいている。
この年、草間、40歳。そろそろ妖精とはお別れかな、という顔つきだ。

時は跳んで、1989年の草間。
草間彌生、60歳。今、お馴染みの顔に近くなる。

2004年には、六本木の森美術館で、「クサマトリックス」と名づけられた大がかりな展覧会も開かれた。
「クサマトリックス」とは、草間彌生の名前と、母胎、発生源を意味するマトリックスとの合成語。水玉はじめ、さまざまに増殖していく草間彌生の世界が展開された。
この写真のみ、その時の図録から複写した。
水玉に埋もれるその姿、2004年、75歳の草間。
いかに草間が好きとはいえ、草間の顔ばかり幾つも載せて、それがどうした、という思いもある。でも、一度載せたかった。だから、これでいい。
ついでに言えば、いつか、ギューちゃんの顔も、思いっきり載せてみたい。