エディの魂。

昼すぎテレビをつけると、エディ・タウンゼントが出ていた。その内、こういう場面も出てきた。

WBCストロー級世界チャンプ・井岡弘樹が、3度目の防衛戦で敗れた時のもの。20年以上も前のこと。
井岡弘樹、その後クラスをあげ、WBAライトフライ級の世界チャンプにもなる。このころには、もうエディ・タウンゼントはいない。いや、ストロー級チャンプとしての初防衛戦で、井岡がベルトを守った直後、息を引き取っている。正確に言えば、その8時間後。

井岡弘樹、スタジオに掛けられた、セコンドを務めるエディさんの写真の前で、時折り声をつまらせながら話す。
この写真、おそらく、井岡弘樹が初の世界チャンプになった時のものだろう。
新聞のテレビ欄を見ると、NHKアーカイブス「エディの魂とともに」、となっている。20年以上前に放映したドキュメンタリーを、井岡と共に見、話す、というもののようだった。

エディ・タウンゼント、多くの世界チャンプを育てた。藤猛、海老原博幸、柴田国明、ガッツ石松、友利正、そして、最後の弟子が、井岡弘樹。一匹オオカミのトレーナーだ。
しかし、エディ・タウンゼントほど、日本のボクサーから慕われているトレーナーはいない。皆、エディさん、エディさん、と言っている。会ったことのない私でも、つい、エディさん、と言いたくなる。
エディ・タウンゼントについては、去年の夏、8月末のブログでも触れたことがある。沢木耕太郎の『一瞬の夏』、つまり、カシアス内藤について書いた折り。
カシアス内藤も、エディさんが育てた選手。「アイツは、素質はナンバーワンだよ」、と言って。しかし、カシアスは、世界チャンプにはなれなかった。”その心根、優しすぎる”が原因だった、と言われる。
エディさんも、トレーニングは厳しいが、優しい人だったそうだ。自らが仕込んだ選手が勝つと、すぐに試合会場からいなくなったそうだ。祝勝会場へも行かず。その代わり、負けた選手には、ずっと付いていてやった、という。沢木耕太郎、『一瞬の夏』でそう記している。

右に少し見えているのは、エディさんの指。

こう言っているのだ。僅かな差だ、と。
チャンプになれるかどうか、その差は僅かだ、と。トレーニングであり、ガッツであり、それができるか、持てるかにかかっている、と。この1センチばかりの僅かな差、井岡も語っていた。

その井岡、今、ジムの会長として後進の指導にあたっている。エディさんの教えを、若い連中に伝えているのだろう。
今年の2月、そのジムから世界チャンプが出た。井岡一翔、WBCミニマム級の世界チャンプ。井岡弘樹の甥っ子だ。スパーリングをするこの黒いヘッドギアの男が、井岡一翔。

エディ・タウンゼント、井岡弘樹が世界チャンプになる前から癌だった。
世界チャンプに挑戦時、東京の自宅の布団の中で寝ているエディさんの元に、大阪で練習をする井岡から、スパーリングの模様を撮ったビデオテープが送られてくる。それを見たエディさん、今すぐ大阪へ行く、と言いだす。
エディさんの身体、大阪まで、新幹線の座席に座って行ける状態ではない。ワゴン車に布団を敷き、それで大阪まで行ったそうだ。井岡、これじゃ勝てない、と思ったのだろう。自ら指導をするために。井岡、当時18歳。日本最年少の世界チャンプとなる。

晩年、死も近いエディさん、身体ばかりじゃなく、顔の肉も削げ落ち、目だけが一点を見つめる。
井岡弘樹の第1回目の防衛戦、エディ・タウンゼントは、もう動くことができない。しかし、それでもエディさん、試合会場へ行く。担架に乗せられて。だが、試合開始30分前、エディさんは昏睡状態に陥る。病院へ運びこまれる。井岡は、勝つ。チャンピオンベルトを守る。
井岡がベルトを守った8時間後、1988年2月1日未明、エディ・タウンゼント、死す。死の床で、奥さんが、「ボーイ(井岡のこと)が勝ったよ」、と声をかけると、一瞬、目を開けたそうだ。
日米の混血、ハワイ生れのエディ・タウンゼント、井岡も含め、日本人の世界チャンプを数多く作ってくれた。しかし、一匹オオカミのトレーナー、いわば請負仕事でもある。厳しい一生でもあったようだ。沢木耕太郎の書にも、そういうくだりがある。だが、私たちには、心に残るトレーナーだ。
それにしても、ボクサーとトレーナーの話って、ジーンとくるものが多いな。今のカシアス内藤もそう。先般の『ザ・ファイター』のダメ兄貴と弟の話もそう。心に沁みる。