日本柔道。

昨日は、「全日本柔道選手権」の流れを追っただけで終わった。早々と姿を消した鈴木桂治へ、やや感情移入したこともあったが。
昨日の大会後、この9月に東京で開かれる世界選手権(東京での開催は、50何年ぶりとのこと)の、100キロ超級と無差別級の代表(それ以外のクラスの代表は、既に決まっている)が発表された。
100キロ超級の代表には、昨日の覇者・高橋和彦と、準々決勝で高橋に敗れた鈴木桂治が選ばれ、無差別級の代表には、準優勝の立山広喜と、高橋、鈴木、それに既に100キロ級代表に決まっている穴井隆将の3人の中から1人を選ぶ、という。
昨日の結果からみて、全柔連、妥当な選考をしたものだと思う。9月の世界選手権、日本柔道の重量級、このメンバーで世界の強豪を迎え撃つ。
しかし、残念ながら、ウーン、と唸る。ヨーロッパや韓国の選手に太刀打ちできるや否や、いささか心許ない。昨日のブログの中で、ベスト8に残った選手は、おそらく皆紙一重じゃないか、と書いた。これを逆にいえば、飛びぬけた選手がいない、今の日本柔道重量級には、絶対のエースがいない、ということになる。
昨日の覇者、今年の柔道日本一となった高橋和彦も、優勝インタビューで、「全日本に勝てて、とても嬉しい。しかし、世界では、まだまだだと思っている」、と話していた。正直な若者である。たしかに、そうだと思う。
引退するまで、引き分けは挟むが203連勝、全日本選手権9連覇、という別格の存在である山下泰裕は、措くとしても、その後の、小川直也、篠原信一、井上康生、そして、一時期の鈴木桂治といったエースが見当たらない。
これでは、世界選手権の重量級の代表に選ばれたどの選手が当たっても、フランスのリネール(北京五輪では不覚を取り、銅に終ったが)にはとても勝てないだろう。リネールどころか、他の選手と当たっても厳しいものとなるだろう。体格の問題ばかりではない。
何故か。私は、こう思う。
「JUDO」という国際競技になって久しいのに、柔道についての考え方が、それについていっていない。日本の柔道界、また、柔道指導者には。
昨日の試合は、準決勝と決勝の3試合を見ただけだが、ほとんど立っての勝負、寝技の攻防がない。それも、簡単に組み合う。それでいて、技はほとんど出ない。試合前の話では、皆、一本を取る、と言っているのだが。
これでは、国際試合には、勝てない。国際試合では、まず、組み手争いが激しい。なかなか組ませてくれない。組むどころか、その寸前の朽ち木倒し、を連発してくる選手もいる。当然、寝技が多くなる。今の柔道、組み合っての投げ合い、というスポーツではない。これが、国際基準だといってもいいだろう。すべてだとは言わないが。
今の全日本男子の監督・篠原信一は、就任時、こう言った。「一本を取る柔道を目指す」、と。その後も、そう言っている。しかし、JUDOという競技は、力の拮抗した選手の間では、なかなか一本が取れるスポーツではない。よほどのタイミングでなければ。立ち技中心、投げ技重視、なんだ。篠原はじめ、日本の指導者は。
徹底的に組み手争いの練習をする、なんてことはしていないんじゃないか。寝技に引っぱり込む練習、なんてことも、従となっているだろう。関節技の練習は、もっと少ないのではなかろうか。いずれも、本来の柔道、美しい柔道、からかけ離れたもの、と考えているように思われて仕方ない。だから、全日本選手権の場でも、すぐ組み合い、立ち技が多いものとなる。国際試合とは、かけ離れた試合運びとなる。
これでは、日本国内では通用するが、対外試合では通用しない選手となる。もう、本家意識とは、完全に離れ、練習の場でも、国際基準で通用するものとするべき、と考える。
国際基準ということで言えば、日本国内の試合、昨日の全日本選手権でも、選手は皆、白い柔道着を着けている。腰に紅白の紐を巻いて。これは従来からの姿である。白の道着は、本来の姿でもある。
だが、国際試合では、選手は白と青の道着を着るのが、国際基準である。そろそろ日本国内でも、大きな大会ではそうすべきではないか。これは、単に道着の色の問題ではない、と思う。闘う選手の意識の問題、国際試合に出た時の選手自身の意識を、普段から鍛えることにも繋がる、と考えるのだが。
日本柔道、本家としての矜持は保たなくてはならない。しかし、今の重量級、厳しい状況にあると思わざるを得ない。全柔連の幹部、そして、指導者が現実の国際基準に合った意識、指導に転換すれば、日本の重量級、また再び黄金期を迎えること、十分可能であろう。
本家の矜持は保ちつつ。