昭和天皇の心奥。

昨年の8月23日、多くのメディアは昭和天皇の侍従であった小林忍の日記が見つかったことを報じた。その中に昭和天皇が、1987年4月7日に小林忍侍従に語ったこういう言葉が記されている。
「長く生きても仕方ない。辛いことを見たり聞いたりすることが多くなるばかり。戦争責任のことをいわれる」、との。この時、86歳近くになられていた昭和天皇、その心の奥底に戦争責任という言葉が引っかかっていたようだ。


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10日前の今月17日、NHKは「昭和天皇は何を語ったのか ~初公開・秘録『拝謁記』~」を流した。
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初代宮内庁長官・田島道治が記した記録をNHKが手に入れた、という。
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「拝謁記」、昭和24年(1949年)2月から昭和28年(1953年)12月までの4年10か月の間、昭和天皇に拝謁した時の会話が記されている。
田島道治、この間600回余の拝謁をなし、昭和天皇との会話を事細かく記している。
昭和天皇は田島道治に心を許していたようだな、ということが感じられる。
毎年夏になるとこの本、ともいうべき『昭和天皇独白録』はとても面白い書である。保阪正康は、<天皇は直接には国策にかかわりをもたなかったというアリバイづくり>(『昭和史七つの謎』 講談社 2000年刊)と記しているが、私は、以前にも記したことがあるが、この書は寺崎英成らによる昭和天皇のエクスキューズを引き出した記録、と考えている。いずれにしろ、東京裁判対策。
その点、田島道治が記した昭和天皇の言葉はとても自然。
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張作霖爆殺の謀略、関東軍が引き起こした。
昭和天皇、27歳である。大元帥であるが、思えば若い。
次々に軍部は暴走する。
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無謀な戦争に敗れ、東京裁判で戦犯が裁かれる。
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昭和天皇、田島道治にこう語る。
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昭和3年(1928年)の関東軍による張作霖爆殺事件の時に、キチンとした処置をとっていれば、と。悔恨の思い。
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こうも語る。
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しかし、天皇は統治権の総攬者であり、主権者でもあった。
「宣戦前か或いはもっと早く止めることができなかったのか、と言うことが退位論者でなくとも疑問に思う」、また、「首相をかえることは大権でできること故、何故しなかったかと疑う向きもあるかと思うが、事の実際としては下剋上で、とてもできるものではなかった」、と昭和天皇は語る。
昭和天皇、その反省を心の奥に抱く。
しかし、それができなかった。
時代が流れる、
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ダグラス・マッカーサーの思惑。
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東京裁判での東條英機の天皇を守る、との思い。
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そして、吉田茂の国際社会を見据えた冷徹な意志によって。
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1952年4月28日、サンフランシスコ平和条約発効、日本は国際社会に復帰する。
その年の5月3日、憲法記念日での昭和天皇の「おことば」についてである。
昭和天皇は、田島道治にこう述べられる。反省の文言を入れたい、と。
「責任」の思いがあったのであろう。昭和天皇が思われていたのは、「皇祖皇宗及び国民に対する敗戦の道義的責任」ということであったが。
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昭和天皇の責任問題、また、退位すべきとのことごと、それまでにもご自身の身のまわりからも出ていた。昭和天皇の母君である皇太后からも、弟君である高松宮からも。
それらをはねつけていた昭和天皇も、講和後の「おことば」では、何としても「反省」の文言を折りこみたかった。
しかし、その件、そっくりそのまま吉田茂に削除される。
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このようなことや・・・
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このような文言も。
「事志と違ひ(意に反し)」、ということは、反しなければ止められたではないか、ということになります、と田島道治は応える。
昭和天皇は、反省の言葉さえ表明されることなく、時を過ごされることとなる。道義的責任さえも。
道義的責任、反省であっても、それは天皇の退位に繋がる、という首相・吉田茂の意志によって。
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1952年5月3日、昭和天皇の「おことば」に「反省」の言葉はなかった。
昭和天皇はそのことをずっと気にかけておられた模様。崩御される少し前、86歳近くでも戦争責任のことが頭から離れなかったのであるから。
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ポツダム宣言受諾、無条件降伏をしてから7年である。
改めて思えば、昭和天皇は歴代天皇の中で唯一、軍人としての教育を受けてきた天皇である。開戦、敗戦ばかりでなく、そのケジメの意志さえ阻まれたことに、忸怩たる思いがあったのではないか、と考える。
今も健在の大勲位・中曽根康弘も、若かりし青年代議士のころ、講和発行の時が天皇退位の時ではないか、と発言している。それに対し時の宰相・吉田茂はそのような輩は非国民である、と一喝している。
これはこれで面白い。
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諸々の天皇退位説、この時で収束する。
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その後の昭和天皇、このようなことも発言している。
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憲法9条を改めるべきだ、と。再軍備すべきだ、と。
田島道治は、そのような政治向きのことは言われない方が、と昭和天皇をお諫めしている。
昭和天皇、「君主」であった時代と「象徴」になった時代の切り替えが今ひとつ、と言うことがあったようだ。
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昭和20年8月15日未明、無条件でのポツダム宣言受諾に最後まで反対していた陸軍大臣・阿南惟幾は、自裁する。刀を用いての立派な自裁。
昭和天皇のお側近くの公爵・近衛文麿も巣鴨プリズンへの連行当日、服毒自殺する。
昭和天皇は生きる。
1989年1月7日まで。
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昭和天皇への拝謁記、これで終わる。
人間・昭和天皇がよく現れている。
軍人・武人として育てられたが、それに徹することができず、心奥、心の奥底にモヤモヤを持っている昭和天皇。その思い、よく分かる。


フランスで開かれていたG7、終わった。たった1枚のペーパーで。
元凶はトランプだ。「なんでG7なんかに行かなきゃならないんだ」、なんて言っている。「G7に、またロシアを入れよ」、とも。
私は、G7からアメリカを外したらいいのじゃないか、と思っている。G7でなくG6となったらいい、と。」
G7を抜けたアメリカは、ロシア、中国と共にG3を構成すればいい。軍事強国であり、オレオレ第一、という国でもある。
いいんじゃないか。やや、無責任だが。


米中摩擦、エスカレートしている。
いったいどこまで行くのか、よく分からない。チキンレースなのか。
このところのマーケット、ニューヨークダウも日経平均も乱高下。
どこへ行くのか。
アメリカも中国も世界の人類にに対し、責任を負っているんだぞ、と思うことしきり。

二・二六異聞。

<わたしはかって、昭和天皇がつよく記憶にとどめつつも口にだしたくなかった人物の名として、出口王仁三郎、北一輝、そして、三島由紀夫の三人の名がある、と書いたことがある>(松本健一著『三島由紀夫の二・二六事件』 文春新書 2005年刊)。
松本健一については以前も触れた覚えがあるが、松本の論考実に面白い。
ところで、松本の挙げたこの3人、いずれも強烈なキャラの立った人物。昭和天皇と対峙するにふさわしい。
出口王仁三郎は、近現代日本を代表する怪物のひとりであるが、松本健一は天皇制の模倣者と記す。北一輝がらみで。
<北の認識によれば、大本教はアマテラスを最高神に仕立てている天皇制国家に対して、その鬼門にあたる「艮の金神(うしとらのこんじん)」を押し立てて「もう一つの神の国」を主張しているとおもわれたことが、・・・>。そして、<北には、大本教が「艮の金神」を押し立てた「もう一つの神の国」をつくろうとしていた意図がみえていたのである>、と松本健一は記す。
アマテラスと艮の金神、二つの神の国。昭和9年7月22日の昭和神聖会の発会式には統管の出口王仁三郎以下、黒龍会の内田良平、玄洋社の頭山満などが出席したそうだ。
2・26の決起部隊の将校の精神的支柱であった北一輝、頭山満や内田良平といったいわば伝統右翼とは立ち位置が異なる。
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『昭和天皇実録』の2・26の日の記述は、当然のことながら長い。
<二十六日 水曜日 この日未明、第一師団・近衛師団管下の一部部隊が、侍従長官邸・総理大臣官邸・内大臣私邸・大蔵大臣私邸・教育総監私邸・前内大臣宿舎等を襲撃し、警視庁・陸軍大臣官邸等を占拠する事件が勃発する>から始まる。<午前五時四十五分、当番侍従甘露寺受長は、・・・。六時頃、御目覚めを願う旨を言上する。・・・。六時二十分、御起床になり、甘露寺より事件の報告を受けられる。・・・>。
この日、昭和天皇は、侍従武官長本庄繁を14回、侍従次長広幡忠隆を6回お召しになっているのを始め、実に多くの人に謁を賜わっている。
叛乱軍とされた決起部隊が完全に鎮定されたのは、3日後の29日午後2時頃である。
決起部隊を率いた将校17名に死刑が課され、7月12日、内15名に執行される。
残りの磯部浅一と村中孝次の2名と、彼ら決起将校の精神的支柱であった北一輝と西田税の民間人2名の4人の処刑は、その翌年8月19日。
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よく知られていることであるが、死刑直前の北一輝の言葉が面白い。
4人が一堂に会した時、西田税が誰にともなく、「われわれも天皇陛下万歳を三唱しましょうか」、といった。その前年処刑された青年将校たちは、皆そう叫んで死んでいったので。<しかし、誰も応えない。ただ北が、「いや、私はやめておきましょう」、といった。そのため、誰も天皇陛下万歳を唱えなかった>、と松本も記す興味深い逸話。
ところで、現在の日本国憲法の第一条、「天皇は日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、・・・」、という条文、象徴天皇とした文言、まあ多くの日本人が知っている。天皇の地位と国民主権を規定したものであるから。
北一輝の『日本改造法案大綱』の巻一「国民ノ天皇」の条項を、松本健一の記述を孫引きする。
<天皇の原義 天皇ハ国民ノ総代表タリ、国家ノ根柱タルノ原理主義ヲ明カニス>。
「天皇ハ国民ノ総代表タリ」って、現行憲法の「この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く>、というくだりによく似ている、と松本健一は記す。
確かに、そういえばそう。
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<磯部浅一の「獄中日記」には、蹶起将校たちを死刑に処した昭和天皇への諫言、怨み言、呪詛の言葉が、毎日のようにのべられている>。<余は日夜、陛下に忠諫を申し上げてゐる、八百万の神々を叱っているのだ、この意気のままで死することにする。・・・。天皇陛下 何と言ふ御失政でありますか、何と言ふザマです、皇祖皇宗に御あやまりなされませ>。
磯部浅一のこの言葉、三島由紀夫に乗り移る。
<われらには、死んですべてがわかった。・・・。何故ならわれらは、まごころの血を流したからだ>。
<皆死んだら血のついたまま、天皇陛下のところに行くぞ。而して死んでも大君の為に尽くすんだぞ。天皇陛下万歳。大日本帝国万歳>。
<そして死んだわれらは天皇陛下のところへ行ったか?>。
<などてすめろぎは人間(ひと)となりたまいし。
  などてすめろぎは人間となりたまいし。
   などてすめろぎは人間となりたまいし>。
三島由紀夫著『英霊の聲』(河出書房新社 昭和41年刊)からランダムに引き抜いた。
昭和天皇が記憶に留めつつも決して口にはしなかった三島由紀夫、そのお気持ちはよく分かる。
余計なことは言わないでくれ、この無礼者、ほっといてくれ、というお心であったことだろう。
三島は、「天皇陛下万歳」を叫んで自裁する。45歳で。昭和天皇、苦々しく思われたであろう。
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最前列中央は、昭和天皇。


韓国のGSOMIA破棄、文在寅の暴走には違いないが、案外、そのように仕向けたということも考えられる。
日本は軍事情報の共有にさほどのメリットはないらしい。痛手をこうむるのは韓国の方らしいし。煩い韓国に一発食らわせてやろう、ということもあったろう。文在寅はまんまとそれに乗り、引くに引けず暴走している、という状態。
1933年(昭和8年)の日本の国際連盟からの脱退を思いだす。
一応日本政府は抗議をし、アメリカ国務長官・ポンペイオは「失望した」と語っている。が、トランプはさほどのこととは思っていないんじゃないか。
米日韓の三か国より、米日や米韓の二国間の方がアメリカにとって得策である、と考えているかもしれない。トランプにしてみれば、安倍晋三や文在寅は、お前らアメリカに尽くしてくれよ、という金蔓なんだから。


今日、居酒屋の帝王である石田からメールがきた。
石田、暫らく病気をしていたので、ずいぶん会っていない。が、元気なようだ。良きことである。
昨日の「流山子雑録」の昭和天皇に関し、記されている。
石田、私の2、3年後輩。私は2年遅れで入っているから、石田も浪人をしているようだが、それでも3、4年は年下ではなかろうか。
その石田、小学5年の時、海洋少年団というところへ入ったそうだ。団長は、旧海軍の水雷艇乗り。右翼団体だったそうだ。日本の軍歌をいっぱい覚えた、という。
それが中学へ入ると一気に左翼へ、となったという。
そして、大学時代は全共闘だ。三島が出てくる。東大安田講堂へ乗りこんで、「天皇」を持ちだしたことを。
その部分だけコピペする。
<三島由紀夫が本郷に乗り込み全共闘との論戦に挑む。
「君達が一言『天皇』を口にすれば我々は一緒だ」。
その通り、極右と極左は隣どうし、円環を閉じるのだ。
北一輝という「天皇を口にしなかった男」が
極左集団から崇められたのも了解可能な事なのだ。
決定的な極左と極右の違いは「天皇」なのである。
いい年をして餓鬼の時代と未だ変わらぬ想いを抱く此の吾が身、
相当に頭の固い人間だワイ>、と石田。



私も、石田よりももっといい年をして、餓鬼のころと未だ変わらぬよしなしごとを思い描いている。

立憲君主と大元帥。

一昨日から昨日にかけての夜間、パソコンに何らかの問題が起きた。
この1年近くのメール、受信メールも送信メールも消えてしまった。一昨日記した「流山子雑録」も本文がすっかり無くなっていた。理由は分からない。
昨日、ヤマダ電機の電話サポートを頼んだ。大分時間がかかったが、メールは復活した。このブログも大丈夫だろう。
一旦記したことを今一度記すことは、あまり面白いことではない。下書きなどないので、まったく同じにはならないのだが、当然のことながら、同じテーマだと似たような記述になる。楽しくない。
しかし、日本の夏は戦争の夏である。日本の戦争は昭和天皇と結びつく。この一週間のNHKでも幾つかのドキュメンタリーが流された。昭和天皇がらみの。
日本の夏を記す。


<私は田中内閣の苦い経験があるので、事をなすには必ず輔弼の者の進言に俟ち又その進言に逆はぬ事にしたが、この時と終戦の時との二回丈けは積極的に自分の考を実行させた>。
今までにも何度も触れたこの時季の私が手に取る書・『昭和天皇独白録』(文藝春秋 1991年刊)には、こういう昭和天皇の声がある。
この中で昭和天皇が「この時」と言っているのは、2・26事件のことである。
2・26と終戦の時には、立憲君主ではなく軍人天皇として、大元帥として行動した、と語っている。
同書ではまた、こうも語られている。
<私は立憲国の君主としては、政府と統帥部との一致した意見は認めなければならぬ、・・・・・、戦争を止める事に付ては、返事をしなかった。十二月一日に、閣僚と統帥部との合同の御前会議が開かれ、戦争に決定した。その時は反対しても無駄だと思ったから、一言も云はなかった>。
開戦時には、立憲君主であるから政府の考えを追認し、2・26と終戦時には、大元帥として行動した。昭和天皇の行動、その時々で自らの立場を使い分けている、矛盾するじゃないか、という声はある。
しかし、そうではないんだ、ということを『「昭和天皇実録」の謎を解く』(半藤一利、保坂正康、御厨貴、磯田道史共著 文春新書 2015年刊)で、半藤一利が語っている。
<実は私は、昭和天皇には三つの顔がある、と考えているんです。ひとつは「立憲君主」としての天皇、もうひとつは陸海軍を統帥する「大元帥」。そして両者の上位にさらに、皇祖皇宗に連なる大祭司であり神の裔である「大天皇」がおわす、というのが私の仮説です。この天皇と大元帥は、一身でありながら、時に重大な相克や齟齬を生じさせ、・・・>、と。
たしかに、そう。一身でありながら、立憲君主と大元帥。重大な相克や齟齬を生じるのは必然。


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台風10号が西日本を北上していた15日夜のNHKスペシャル。
「全貌 二・仁六事件」、極秘資料で追う。
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「極秘」。
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天皇は、決起部隊の行動を拒否する。
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陸軍大臣は決起軍の要求を容れる。
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昭和天皇は海軍に対し「大海令」を出す。
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陸軍首脳には、「彼等ノ言分ニモ理アリ」という空気があった。
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北一輝、西田悦の名がある。
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昭和天皇、決起部隊・反乱軍の鎮圧を強く命じる。
<朕ガ股肱ノ老臣ヲ殺戮ス、此ノ如キ凶暴ノ将校等、其精神ニ於テモ何ノ恕スベキモノアリヤト仰セラレ>(保坂正康著『昭和天皇実録』その表と裏③ 毎日新聞出版 2016年刊)。
昭和天皇の怒り、なまなかなものではない。
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奉勅命令が出る。
参謀総長・閑院宮載仁親王名であるが、昭和天皇の命により。
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決起軍、海軍はもとより、この段階で陸軍上層部との間は断ち切られた。
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決起部隊の青年将校は、こういう思いであった。
しかし、昭和天皇は徹底鎮圧を命じる。軍人天皇として。
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昭和天皇の中では、終戦時と2・26事件時が深く心に残っている模様。
それはそれとし、昭和の時代・戦争の時代のご自身の責任については、最後まで明らかにされなかった。人間らしいといえば人間らしい。
それを引き継いだのが先帝である。
平成の天皇、自らの努めを父君・昭和天皇がやり残されたことごとを果たされてきた。美智子皇后とともに。
先帝である現上皇、素晴らしい行動を成しとげられた。
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今日、韓国は「GSOMIA」の破棄を決めた。
驚いた。
何とー。
両国の信頼関係が失われれば、致し方ないか、とも思うが。
「日韓請求権協定」に関しては、明らかに日本側に理がある。
韓国側も、そのことは理解しているであろう。しかし、そうは言っても、ということもある。何のかのと言っても、植民地支配を受けてきたのだから。
こういうことは、論理以前のこともあるんだ。日本側も論理、論理ばかりじゃなく、その気持ちの機微、汲んでもいいのじゃないか。韓国側も、そのほんのちょっとした反応を待っているに違いないので。

令和初の8月15日。

令和初の8月15日、今上天皇は、一週間前から「おことば」の推敲を重ねられていたそうだ。
父君・上皇のお心を継承された。
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日本武道館での全国戦没者追悼式、11時50分から中継が始まる。
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即位後3か月半となる天皇、皇后・雅子さまとともに出席される。
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内閣総理大臣・安倍晋三の挨拶、例年通り。
「戦争の惨禍を二度と繰り返さない」に続けて、「この誓いは、昭和、平成、令和の時代においても・・・」と、「令和」という言葉を加えたことのみ。先帝・上皇が語られていたような「過去を顧みる言葉」は見当たらない。
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12時少し前、標柱の前に進まれた天皇、皇后両陛下、暫し後の12時、黙禱される。
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そして、初めての「おことば」を述べられる。
「ここに過去を顧み、深い反省の上に立って、・・・」、という先帝・上皇から受け継がれた言葉を含めて。
安倍晋三が決して口にしない言葉を。
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この後、衆参両院議長、最高裁長官の挨拶があるが、例年通りこれがまた皆さんの言葉、ほとんど同じ。これで三権の長と言えるのか、と思うのみ。
遺族代表・森本浩吉さんの挨拶となった。77歳。戦死した父親のことは憶えていない、と語る。小さな頃、父親は兵隊にとられ、戦死した。
安倍晋三の挨拶や天皇の「おことば」、三権の長の挨拶に較べ、この父親の記憶がないという遺族代表の言葉は長かった。自らの身体から出てくる言葉なんだ。
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天皇、皇后両陛下、77歳老人に向き合い、その言葉を聞く。
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その後、両陛下は退席される。
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お姿が消えていく。
昨年のこの日、最後の追悼式から退席される上皇、上皇后が、少しずつ少しずつ退席されたことを思いだす。
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12時25分、今年の中継は終わる。


NHKの中継を見ながら、先帝である上皇、上皇后のことを思った。
両陛下も今日の昼、NHK中継をご覧になっていたに違いない。
後を継いだ新帝も自分の心を受け継いでくれたな、と思いながら。
そうに違いない。


韓国では日本敗戦の日である今日は、日本の植民地から脱した「光復節」である。
民族服を着た大統領・文在寅、やや微妙な演説をした。
先般来の日本の不当な輸出規制は批判し立ち向かう、と述べたが、歴史認識問題ではトーンを落とした。日本が対話に出れば手を握る、と。
はっきり言ってトランプなんかに、「お前たちふたり、いい加減に仲良くしろよ」なんて言われるのは片腹痛い。
ふたりで何とかしろ。

「日本」主義。

昨夜のNHKスペシャル、新聞の番組案内には、「こうして自由は死んだ 右派新聞と戦争への道 議会主義とテロリズム 民衆はなぜ熱狂したか」、と何とも盛りだくさんな文言が並んでいた。
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いきなり佐郷屋留雄の顔が出てきたので驚いた。
その佐郷屋留雄を正装した多くの男たちが、どうも追悼している映像が流れた。右翼団体の人たちらしい。今、現代の映像である。彼らにとって、佐郷屋留雄は英雄である。
佐郷屋のことは知っている。日本を代表するテロリストのひとりである。
1930年(昭和5年)、東京駅で時の首相・浜口雄幸を狙撃した。ロンドン軍縮条約に調印したことに対する反発。統帥権干犯、と言う論理である。ライオン宰相・浜口雄幸は、銃撃を受けながらも一命は取り止めるが、その翌年死ぬ。
昭和の初め、多くの政治家が殺される。右翼のテロにより。
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浜口雄幸。
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井上準之助。
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犬養毅。
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高橋是清。
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戦前最大の右派メディア・「日本」新聞をNHKが独自に入手した、という。
「日本」新聞、1925年(大正14年)に、国粋主義者・小川平吉によって創刊された。
天皇絶対の日本主義を突き進める。日本という国もそのように動いていく。
1931年 満州事変。1932年 五・一五事件。1933年 国際連盟脱退。1935年 天皇機関説事件。1936年 二・二六事件。1937年 盧溝橋事件。1941年 太平洋戦争、というように。
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万世一系の天皇が、すべての源。
以下、画像でお考えください。
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ここでタイトルが流れた。
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<満洲を経営するは これ我が皇道の大業なり 侵略といえど侵略にあらず 聖戦なり>。
侵略すれども侵略にあらず。聖戦であるから、と。何と言う論理。[
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1935年(昭和10年)7月13日、「日本」新聞を創刊した小川平吉は、「休刊の辞」を記す。
<新聞「日本」の十年は日本転向の十年である。国民思想の性質はすでに一変したと言うことができる。国運の進路はこの方向を決定した。深くここに謝意を表す>、と。
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その後の日本・・・
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そのように突き進んでいった。
天皇絶対視の日本主義に。
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世の流れを思わせるひとつのことが、心に残っている。
大正末、信州下伊那にひとりの音楽教師がいた。大正デモクラシーの時代、伊那の地で自由主義教育を行っていたそうだ。その男がある時から学校をやめ、日本主義、天皇絶対の国粋主義者となっていく。不思議なことだが、そうなっていく。
国粋主義、自国第一という考え方、現代に通じる。特にトランプの登場以後、地球上あちこちで。おそらく気持ちいいのだろう。そのような場に身を置き、他を攻撃することが。
ヤなことだな。
しかし、昭和の初め、日本はそのように突き進んでいった。昭和20年8月まで。
そこで一旦チャラになったはずなんだが、このところまたぞろ、ということを感じるな。

昭和20年8月12日。

6日に広島、9日に長崎に新型爆弾を落とされた。原爆を。
翌10日、昭和天皇は最高戦争指導会議に臨御される。
天皇は、新型爆弾と言われる原爆を落とされてはもうどうしようもない、という気にはなっていたが、この日までポツダム宣言受諾についての最終的な決定はしていなかった。
天皇の国法上の地位存続のみを条件とする内閣総理大臣・鈴木貫太郎や外務大臣・東郷茂徳などと、天皇の国法上の地位存続に加え、在外軍隊の自主的撤兵及び内地における武装解除、戦争責任者の自国における処理、さらに保障占領の拒否の4点を条件とする陸軍大臣・阿南惟幾や参謀総長・梅津美治郎などが対立していた。しかし、結論は出なかった。
そこで出たのが、世に知られている首相の鈴木貫太郎から天皇への「御聖断を仰ぎたき旨」の言葉である。天皇は、外相・東郷茂徳の案を取る。
即刻、外相よりスイスとスウェーデン駐在公使に打電、両国政府を通じて米英ソ中国政府に対しての伝達を要請する。
が、ここからまたひと波乱もふた波乱も巻き起こる。天皇の国法上の地位、つまり国体護持に関し。連合国側はもとより、ポツダム宣言で天皇の国法上の地位存続、国体護持などということは言っていないのだから。
天皇は、連日、軍人、政治家、皇族、さまざまな人を呼び、奏上を受けている。ポツダム宣言受諾を決した後もさまざまに。阿南陸相や梅津参謀総長、豊田軍令部総長などの、いわば無条件でのポツダム宣言受諾に反対する人たちからも。
今日の私は、大部にわたる『昭和天皇実録』にもとずいて記している。
『昭和天皇実録』については、昨年の夏にも記した。各巻900ページから1000ページ近くある大著、もちろん飛ばし読みであるが、面白い。
実は、74年前の今日、8月12日の記述にこうある。
<十二日 日曜日 午前零時十二分空襲警報発令とともに、新型爆弾搭載の米軍爆撃機B29侵入との情報接到につき、直ちに皇后と共に御文庫附属室に御動座になる。同三十分、空襲警報解除につき、御文庫に還御される>、との。
新型爆弾というのは、広島や長崎へ落とされた原爆のことである。このことは、あまり知られていないのではなかろうか。東京に原爆なんて。
アメリカは、広島、長崎に続く第3の原爆投下を用意していた。日本が2発の原爆でも降伏しなければ。
その対象となる都市は。小倉、新潟、京都、横浜、名古屋、大阪、神戸、札幌、・・・。
最も可能性の高い都市は、東京であったようだ。長崎に落とされた原爆と同じプルトニウム型原爆、その名は「トウキョー・ジョー」。投下予定日は、8月17日。19日とか20日という説もある。
いずれにしろアメリカ、黄色人種のジャップに対しては、「参りました」と手を挙げるまで、いくらでも原爆を落とし続けたに違いない。
今日、8月12日、そう考える。